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日本の海運は、どのように歩んで来たのか?(古代から江戸時代の幕末まで)

前回・前々回と、スエズ運河やパナマ運河が建造されるまでのいきさつや背景を記述しました。

遠い昔、西アジアやヨーロッパに住んでいた人達は、古代のシルクロードで物資の行き来があった頃にも、陸の代わりに海で繋がっていれば物流がもっと楽だろうと、気づいていたのかもしれません。15世紀頃になれば、インドからお茶や香辛料をイギリスに南アフリカを回っての航海により輸送しながら、実は、アラビア半島の百数十キロの陸路を水路に代えれば、どんなに楽になるかということも、認識していたようです。その思いが、19世紀の後半にスエズ運河の完成で、実を結びました。また、ヨーロッパの列強が西に向かい、アメリカ大陸から更に西に向かうにあたり、ここもまた、海でつなげてしまうのが楽だと言う発想が生まれて、パナマ運河の完成につながりました。

 

そんな諸外国と同じように海が身近にある日本での海外との交易が、どのように展開していたのかと思うに至り振り返ってみました。海に囲まれていることは、同じ条件ではあったものの、鎖国が解かれて開国という一大事が起きたほんの150年前までは、海外との交わりは諸外国に比べ、少なかったようです。比較的、おおらかに穏やかに海と付き合ってきたという印象があります。

 

遠い昔の書物「古事記」「日本書紀」に、大海原を渡る船に関する記述はあるようで、飛鳥時代(593年~710年)・奈良時代(710年~794年)・平安時代(794年~1185年)には遣隋使・遣唐使が遭難のリスクにもめげず、大陸に向けて果敢に航海をトライしていました。遣唐使は20回近く派遣されて、無事に帰って来たのは半分にも満たないそうです。遣唐使船のサイズはおおよそ長さ30M・幅8Mぐらいだったとのことですが、櫓をこぎ、さらに帆で風力も利用できる船で、1隻当たり100人から120人が乗っていたとされます。

当初の大陸へのルートは、朝鮮半島を経由していたのですが、白村江の戦いで、日本が唐・新羅軍に敗れたのちは、新羅との関係を壊したことにより、南の島・大洋ルートを取ることを余儀なくされ、航海のリスクが増すことになります。その頃の人達にとっての船出とはどのような意味があったのでしょうか?生きて帰れる保証など無い中で、国家の仕事としての責務だけを背負って恐怖を押し殺して出向いたのでしょうか。

 

894年に菅原道真が遣唐使を中止してからは、国家事業としての交易の活動が途絶えることになります。しかし、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけても、私的な貿易自体はずっと行われていたようです。例えば、平清盛などの平家による日宋貿易です。

公的貿易に再開するのは、1404年からの足利義満が明・永楽帝との間で始めた勘合貿易です。永楽帝が民間の交易を禁止し、国家にのみ交易許可証を認めることとし、それを勘合府と呼んだことから、勘合貿易と言います。この目的の一つに、その頃日本と中国の海域を暴れまくっていた倭寇の活動を抑えることにもありました。船は千石船サイズだったと言われています。

戦国時代には朱印状貿易が行われます。1543年に種子島に鉄砲が伝来し、キリスト教が布教されるという時代が来ます。豊臣秀吉が、海外の物品の調達に興味を持ち貿易を推奨します。信用ある者に限り朱印状(貿易許可証)を与え、貿易に従事させるとの考えからです。江戸時代に入り初代家康までは、朱印船貿易を積極的に行ってきましたが、三代目家光の時に、海外からの宣教師によるキリスト教布教が国内の安定を壊す可能性を生むとして、外国人を入国させない、海外から物の入れないと言う鎖国政策を取るようになります。それにより、朱印船貿易が終了します。世界レベルでは大航海時代に入っていくのに対し、日本は真逆の方向の、海外との海運や交流が閉ざされる道を歩み始めます。

 

海外との交易が途絶える要因は鎖国ですが、もう一つ、輸送手段の船舶の発展を止める原因となる出来事が同時期に起きていました。これは、完全に日本国内の問題ですが、徳川幕府は国内の大名の勢力が大きくなることを防ぐ目的で、「大船建造禁止令」が寛永12年(1635年)に武家諸法度17条として発せられ、500石以上の積載船は没収されることとなります。特に西国大名を念頭に置いて、水軍力に制限を加えるという目的に発せられたものです。

これが日本海運の停滞の元になったのは間違いありません。1603年から1868年の江戸時代を海外とのいざこざが無く、平和な時代だったという見方もあるでしょうが、その間、鎖国と大船禁止令により、大きな船による海外との交易が乏しく退屈な時代だったのかもしれません。

表向きは、大船建造禁止令により500石以上の積載船の建造が禁止されていましたが、記録によりますと、商船は例外として許可されていたとのことです。従って、その頃日本の沿岸を航海する船の主流は、500石船の倍の千石船だったようです。しかし、外洋航行の必要がないため、技術の開発もそれ以上の進展はなかったようです。

千石船の標準サイズは、長さ29メートル、幅7.5メートル、載貨重量150トンだったと言われます。このサイズは、前述の遣唐使の船とあまり変わらないようです。船は決して大きさで進化の度合いを計るものではありませんが、江戸時代後期の19世紀に、それより10世紀前の平安時代とほぼ同サイズの船を動かしていたことになります。

そんな時代の1853年に旗艦 “サスケハナ号”含む4隻の黒船(機帆船)が、浦賀にやってきて、江戸が大騒ぎになったのです。サスケハナ号のサイズは、長さ 78.3メートル、幅13.7メートルと、長さで言うと千石船の3倍近くもあるのですから、日本人が驚くのも無理はないと思います。たとえるなら、横浜港で氷川丸を見慣れた人の前に、20万グロストンの超大型クルーズ客船がいきなり現れたような衝撃でしょうか?!

そして、まさしくその年(1853年)に、幕府は大船建造禁止令を廃止しました。近代の日本海運の発展は、そこから始まったと言えます。

 

(注) 左上の写真は、奈良市にある平城宮跡歴史公園にある遣唐使船レプリカ。

右下の写真は、酒田市日和山公園にある千石船レプリカ。

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